図書出版

花乱社

『戦前期南氷洋捕鯨の航跡:マルハ創業者中部家資料から』岸本充弘 編

■本体2000円+税/B5判/216頁/並製
■ISBN978-4-910038-14-8 C0062
■2020.5刊
■書評・紹介:「鯨研通信」第488号2020.12 「読売新聞」11.29
「山口新聞」2020.7.6「みなと新聞」6.18「毎日新聞」6.13
「朝日新聞」6.3
■著書:『山口の捕鯨・解体新書』

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昭和15年10月、太平洋戦争開戦直前の緊迫した情勢の中、日本から南氷洋に出漁した第二日新丸船団の事業部長・中部利三郎が記した「漁場日誌」が奇跡的に発見された。外国や他社船団と激しく競合しながら指揮・操業した半年間の記録を中心に、旧大洋漁業の戦前の商業捕鯨に関する貴重な一次資料を初めて紹介する。





目次


はじめに
発刊に寄せて 日本鯨類研究所 名誉顧問 大隅清治
序章 下関市立大学鯨資料室とアーカイブの取り組みについて
第1章 「昭和十五年/十六年度漁場日誌」について
 1.資料発見の経緯について
 2.日誌を辿る
 3.漁場日誌にみる戦前の南氷洋捕鯨を検証する
 4.小括
第2章 中部家資料から戦前の南氷洋捕鯨を辿る
 1.「昭和十一(1936)年/十二(1937)年 捕鯨用海図」について
 2.「昭和十三(1938)年度鯨油製造日計表」について
 3.「昭和拾貮(1937)年度鯨油製造統計表」について
  ─昭和十三(1938)年度鯨油製造日計表と比較して─
 4.「日新丸積量図」について
 5.『海洋漁業 第四卷第八號八月號』について
  ─中部利三郎氏講演録にみる戦前の南氷洋捕鯨─
第3章 「昭和十五/十六年度漁場日誌」口語訳文
第4章 「昭和十五/十六年度漁場日誌」原文翻刻
終章 中部家資料からみえてくるもの、そしてこれから


本文より


 我が国における戦前の南氷洋捕鯨は、昭和9(1934)年に東洋捕鯨が日産グループの傘下に入って社名を変えた日本捕鯨が、ノルウェーの捕鯨母船アンタークチック号(後に図南丸と改名)を購入して南氷洋に出漁したのが最初であった。それから一足遅れて南氷洋に出漁したのが、当時の林兼商店が南氷洋に出漁するために設立した大洋捕鯨であった。林兼商店は昭和11(1936)年、日本で最初の捕鯨母船日新丸を建造した。その翌年の昭和12(1937)年には第二図南丸及び第二日新丸が、更に昭和13(1938)年には第三図南丸及び極洋丸が建造され、日本の捕鯨母船は6隻となり、第二次世界大戦が開始される昭和15/16年漁期まで南氷洋で活躍することとなる。
 (略)日本は後発にも拘わらず第二次大戦前には世界第3位の捕鯨国の地位を占めるまでになる。当時南氷洋で捕鯨を行っていたノルウェー、イギリス等船団の主な生産品は鯨油であったが、日本の船団は、日誌の記述にあるように、鯨油に加えミールや塩蔵鯨肉等の食料生産も行っていた。
 中部利三郎氏の漁場日誌には、短期間で世界第3位となった日本の捕鯨船団の苦労と苦悩が刻々と記載されている。捕鯨船に発生するボイラー等機器の故障、同様に母船の設備である製油機器やミール生産機器の不具合、また、出港地横浜港の日本海軍の艦船の様子、外国軍隊の検査や日本の銀行の信用状使用不可等、次第に近づいてくる第二次世界大戦の緊迫した状況も読み取れる。これらのことは、日本を取り巻く不安定な世界情勢の中、かなりの緊張を強いられると同時に、様々なトラブルが発生しながらも、南氷洋出漁経験の浅い日本船団が、なんとかこの危機を乗り越えていこうとする気概も感じられるものでもある。
(第1章 「昭和十五年/十六年度漁場日誌」についてより抜粋)



【編者紹介】岸本充弘(きしもと・みつひろ)

1965年、山口県下関市生まれ。下関市職員、下関市立大学附属地域共創センター委嘱研究員。北九州市立大学大学院社会システム研究科博士後期課程修了。博士(学術)。
下関市職員として新水族館建設推進室、国際捕鯨委員会(IWC)下関会合準備事務局、(財)日本鯨類研究所情報文化部派遣、水産課、公立大学法人下関市立大学派遣、教育委員会文化財保護課等を経て、現在、下関市文化振興課主幹・下関くじら文化振興室長。
【著書】『関門鯨産業文化史』(海鳥社、 2006年)、『下関から見た福岡・博多の鯨産業文化史』(海鳥社、 2011年)他