『わが戦わざりし戦記《ソ連抑留の思い出》』米谷 勲 著 米谷奈津子編
■本体4000円+税/A5判/342頁/上製
■ISBN978-4-911429-29-7 C0095
■2026.8刊
生き延びなければならない。──本能のみが彼を支えた。
1945年、平壌で軍事捕虜となり、強制連行されてユーラシア大陸を横断、遥かウクライナ(旧ソビエト連邦)へ。
零下40度の荒野での重労働、飢え、明日さえ見えぬ暗闇──
半世紀を経て綴られた3年間のシベリア抑留記。
目次
刊行にあたって
[地図]われらの長征/朝鮮半島/ハリコフ周辺
*
一 終 戦
二 籠の鳥(三合里の生活)
三 平壌から興南へ
四 興南にて
五 シベリアへの道
六 本格的捕虜生活へ
七 ユーラシア大陸横断
八 地獄のロガン
九 ハリコフ菓子工場
十 教会跡の収容所
十一 ハリコフ戦車工場
十二 療養の日々
十三 メシアゲ、カンチャイ
十四 東への道
十五 ダモイ(帰国)
年 譜
あとがき
移動記録(手記より)
米谷勲経歴
*
米谷勲との思い出
[梅見しずえ/佐藤広子/米谷千里/藤津淳子/瓜生惠美子
米谷英資/有馬総子/萩原幸枝/武田敏江/米谷奈津子/顯二の句]
人名索引
「あとがき」より
大東亜戦争が終わる直前の昭和二十年八月九日午前零時、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告。満州・北朝鮮へ一斉に武力侵攻を開始し、さらに南樺太及び千島へ侵攻した。正規編成の部隊を次々に南方作戦に引き抜かれ、弱体化していた日本軍は、強大なソ連軍の敵ではなかった。
日本は六日後「ポツダム宣言」を受諾して敗戦。
朝鮮は北緯三八度線で分断され、たまたま北部(平壌)に駐屯していた我々は、満州の関東軍将兵と共にソ連の軍事捕虜として抑留生活を体験させられた。その毎日は不安と苦しみ、さらには飢えとの闘いの連続であった。この苦闘に耐え切れず多くの犠牲者も出た。
平壌を基点に、三合里・興南を経てシベリアの野に、さらにはウラルを越え故国を距る一万二〇〇〇キロメートルの彼方ウクライナの地を転々し、酷寒に耐えあるいは炎熱の荒野で、強制労働に明け暮れたその毎日を語るには、余りにも暗く余りにも哀しい。
併し取り返しのつかぬ、かけがえのないあの三年余(軍隊から通算すれば、五年八か月)が、歴史に無視されたまま埋もれてしまう……そんなアホなことがと、ひとり歯ぎしりして、四十余年が過ぎた。(略)
自分を振り返ってみた時、そこには戦争だけしかなかったことに気が付くのである。好むと好まざるとに拘わらず、それが青春のすべてであった。(略)
「刊行にあたって」より
この手記は、一九九二(平成四)年に書き上げられたものです。
米谷勲(一九二一―二〇〇七)は、福岡県嘉穂郡大隈町(現嘉麻市)に生まれました。第二次世界大戦下の一九四三年三月、二十二歳で出征、陸軍に入隊。二十四歳、平壌で終戦を迎えましたが、旧ソ連によりシベリア経由で遥か遠いウクライナまで強制連行され、過酷な労働を強いられました。三年余の抑留生活の後、一九四八年十一月、二十七歳で五年八か月ぶりに日本へ帰還しました。
本書「あとがき」中に、「自分を振り返ってみた時、そこには戦争だけしかなかったことに気が付くのである。好むと好まざるとに拘わらず、それが青春のすべてであった」と記したように、勲は二十歳代のほとんどの時間を「戦争」に取られたのでした。
本書は、勲が七十一歳で完成させた手製冊子『わが戦わざりし戦記《ソ連抑留の思い出》』を元に、その後本人が修正・補綴したものを加えて制作しました。
「悪夢を払いのけることに努めたが、一方経験を記録しておきたいとの願望も、絶えず持ち続けていた」(「あとがき」より)との思いがあった勲は、定年退職後、昭和が終わると、頭の中の記憶を手がかりに言葉を紡ぎました。
手製冊子は、自らワープロで打った文字に地図・写真・挿絵を組み合わせ、コピーしたA4用紙を二つ折りにして綴じたもので、三人の兄や四人の娘など極親しい人の分だけ作られました。表紙は布(緑色)と和菓子などの包装紙を丁寧に貼り合わせたもので、整然とした冊子は勲の几帳面さの現れでした(321ページ参照)。
本書では、著者本人の意思を尊重する立場から、送り仮名や漢字・数字の表記統一などの校訂を除いては原文のままを基本としています。(略) [編者]
【著者紹介】 米谷 勲(よねたに・いさお)
1921(大正10)年、福岡県生まれ。1943(昭和18)年に出征。終戦後、シベリアを経てウクライナへ強制連行され、約3年間の抑留生活を送る。帰国後は会社員として勤務。1989(平成元)年より手記の執筆を始め、1992(平成4)年完成。2007(平成19)年没。享年86。