図書出版

花乱社

威風凛々 烈士 鐘崎三郎 』鐘崎三郎顕彰会編集委員会編


←戻る

二十一世紀の新しい顕彰の形を求めて
―『威風凜々 烈士鐘崎三郎』の刊行に当たって―

向野堅一記念館 向野正弘   

 鐘崎三郎(明治二年〜二十七年、一八六九〜一八九四)。普通には、遼東半島において刑死した日清戦争の悲劇の「英雄」。通訳官・軍事探偵「三崎」の一人として知られ、芝居、講談、紙芝居、小説等の主人公としても取り上げられ、知らぬ者なき「英雄」であった。

 本書は、鐘崎三郎生誕百五十周年を記念して計画され、御子孫の角隆惠氏の白寿を祝して刊行された。向野堅一記念館も本書の編集に関わることができ、様々考えさせていただいた。本書の紹介と考えたことの一端とを記してみたい。

一.日清戦争遼東半島の六通訳官: 遼東半島において軍事探偵として密命を帯びた通訳官は六名おり「六通訳官」という。彼らは、上海の日清貿易研究所における学縁によって結ばれている。鐘崎三郎を含む三名は刑死(「三崎」という)、2二名は行方不明。唯一生還した人物が向野堅一である。貿易によって日清間を架橋しようとした有意の人達が非業の死を遂げねばならなかった点に、戦争の悲劇性を感じる。

 六通訳官の内、五名は福岡県の出身者で、鐘崎三郎・猪田正吉・大熊鵬の三名は筑後の出身、山崎羔三郎・向野堅一の二名は、筑前鞍手郡の出身で、山崎羔三郎は山口村(現宮若市)、向野堅一は新入村(現直方市)の出身である。実は鐘崎三郎の母は、鞍手郡八尋村(現鞍手町)の出身で、三郎も八尋村で生まれている。

二.納戸鹿之助『烈士 鐘崎三郎』の収録の意義: 本書は納戸鹿之助『烈士 鐘崎三郎』(昭和十二年、『烈士の面影』大正十三年の改訂版)を核としている。納戸は、鐘崎三郎の出身地である三潴郡青木村の小学校校長で、顕彰活動に尽力した。したがって、人間形成の視点を有している。また丹念に書簡を収集し、丹念に聞き取りして、可能な限り実態に迫ろうとした。したがって、史料として高い価値を有している。本書では、諸史料を可能な限り取り入れて、読み仮名を振り直し、句読点や文字に検討を加え、漢文部分に書き下しを附すなど、読みやすくするように配慮した。

三.口伝の実証的検討に基づくファミリーヒストリーの試み: 本書において特記すべきは、御子孫の森部眞由美氏の記した「『烈士 鐘崎三郎』に思いを寄せて」で、本書の白眉とも言う部分である。

 ことの発端は、昭和四五年(一九七〇)の鐘崎三郎の銅像の再建・除幕式であった。母は、除幕式を行った高校生の娘に対して、三郎の名を「他言しないように」(四七頁)と念を押した。半世紀をへて、娘は、母の思いを受けて、鐘崎三郎の全容の解明に乗り出した。

 母の口伝を娘が調べる。すると鐘崎三郎の父、鐘崎寛吾の実像が立ち現れてくる。「社僧」として、幕末・明治維新を生き、廃仏毀釈の混乱の中で、非業の死を遂げた人物である。口伝というものの力を再認識させていただいた。さらにこの節は、母の内面史といった趣である。戦前孤児となり、同じ境遇の三郎に対する共感は、時代の激変のなかで、押し殺さねばならなかった。そのように見れば、一つのファミリー・ヒストリー(家族史)となっている。さらに補足の「筑後の教風と人の繋がりを求めて」は、寛吾・三郎を取り巻くものが一朝一夕のものではなく、古い歴史的な意義を有し、複雑に絡み合って、今日に至っていることを明らかにしている。

四.新しい鐘崎三郎像の模索: 鐘崎三郎については、戦後永らく等閑に附されていた。しかし近年、日清貿易研究所が注目され、日清戦争の再評価がなされる中で、注目されるようになってきている。したがって「第四部 新たな鐘崎三郎像の構築と顕彰に向けて―解説ならびに考察―」において、今日的な視点から、検討を加えることとした。

 「第一章 鐘崎三郎墓前祭から長崎事件を考える―史像の再検討に向けて―(浦辺登)」は、日清戦争の遠因をなす「長崎事件」から史像再検討の糸口を見出そうとする。日清戦争に関する書籍の中には、呆れるような内容のものもある。鐘崎三郎に光を当てることにより、見えてくるものがあり、日清戦争の再評価にも関わってくる。浦辺氏は、再検討に当たって、遺物の重要性を確認する必要性を述べる。福岡へ来て、歴史を見ると、関東において見るのと少し違って見える。朝鮮半島・中国が身近に感じられる。関連する遺物も多く、郷土史の手法から日清・日中の歴史を見直せるのは、重要な点とみた。

 「第二章 烈士鐘崎三郎をめぐって(向野正弘)」は、納戸鹿之助編著『烈士 鐘崎三郎』の意義を踏まえ、不足している点、具体的には、中国での動向を追った。日清貿易研究所史における位置付け、中国旅行の足跡、向野堅一から見た三崎の意義などである。

 「第三章 満州における「三崎」ならびに六通訳官の顕彰―向野堅一を中心とする活 <br />動とその後―(向野康江)」は、向野堅一並びにその子孫による「三崎」「六通訳官」顕彰の足跡を述べる。その遺志を引き継いだ苦闘の一端は、これも一つのファミリー・ヒストリー(家族史)と言うべきものとなっている。

五.おわりに―研究と顕彰―: 鐘崎三郎は、知らぬ者なき「英雄」であった。そのことが御子孫に様々な光と陰とを投げかけた。等身大の鐘崎三郎像を研究する状況ができあがるまでに、没後百年以上の時間を経過し、二十一世紀を待たねばならなかったのである。

 「歴史は個にして全、全にして個なるものである」という。歴史を研究していると、一人の人物に、時代の課題が集約的、重層的に現れることがある。鐘崎三郎もそうした人物の一人であり、一層の研究の深化が期待される。本書はそうした端緒となるべきものである。顕彰とは、美化することではない。着実な研究活動の積み重ねの上に、等身大の史像を描き、その生きた時代の意義を鮮明にしていくことであるべきであろう。末尾となるが、本書に関わらせていただいて、向野堅一顕彰の方向性も見えてきたように感じたしだいである。
(鐘崎三郎顕彰会〔編集委員会〕編『威風凜々 烈士鐘崎三郎』花乱社、令和三年五月刊、定価三〇〇〇円+税)