『戦国時代の筑前国宗像氏』桑田和明著
■本体4000円+税/A5判/306頁/上製/品切れ
■ISBN978-4-905327-60-8 C0021
宗像社最後の大宮司宗像氏貞を中心に,戦国時代から豊臣政権下までの宗像氏を論究。
宗像郡一帯の海と陸の領主で,宗像社の大宮司であった宗像氏。立花城城督戸次道雪や秋月種実,宗像郡に隣接する遠賀・糟屋両郡の領主麻生氏,米多比氏,薦野氏などについても,氏貞との関係を中心に描き,北部九州の戦国史を明らかにする。
【目次】
序/本書の概要
第一編 戦国時代の宗像氏周辺
第一章 遠賀郡の瓜生氏と麻生鑑益
第二章 糟屋郡の米多比氏と薦野氏
第三章 立花城城督立花鑑載・親続について
第四章 フロイス『日本史』にみる戸次道雪と秋月種実
第二編 大宮司宗像氏貞
第一章 宗像氏の朝鮮通交と称号
第二章 宗像氏貞の中納言申請とその背景
第三章 宗像氏貞の神社造営と棟札
第四章 氏八幡への遷宮行列次第
第三編 宗像氏妻女の働き
第一章 家督相続をめぐる宗像氏貞の母と妻女
第二章 宗像氏貞妹と戸次道雪
第四編 豊臣政権と宗像氏
第一章 宗像氏貞没後の宗像氏
第二章 九州国分と毛利氏隆景
おわりに/索引
「序」より
本書では、戦国時代から織豊時代の筑前国宗像社の大宮司宗像氏を中心にとりあげる。宗像社は、周知のように九州本土の辺津宮、玄界灘に浮かぶ大島の中津宮、沖ノ島の沖津宮の三社から構成される。
宗像氏は古来、宗像社の大宮司であった。鎌倉時代には幕府の御家人となったように、筑前国の有力領主でもあった。更に宗像社が海岸に漂着する寄船・寄物の権利を認められていたこともあり、宗像氏は宗像郡の浦・島を支配する領主でもあった。浦・島には宗像社の末社が鎮座し、浦人の信仰を集めていた。
宗像氏は鎌倉時代の政変、南北朝時代の動乱を乗り越え、室町・戦国時代には筑前国の有力領主として活動する。宗像社を信仰する浦・島の人々を掌握する宗像氏は、朝鮮通交を行い、倭寇の統率者でもあった。
戦国時代には、大宮司職をめぐり一族間の争いを繰り返すこともあったが、周防国山口を本拠にする大内氏との関係を深めていく。宗像正氏は山口に居住、大内義隆から偏諱を授与され、黒川隆尚と改名し大内氏の一族とされている。隆尚は天文十六年(一五四七)に死去している。
天文二十年、義隆は家臣である陶隆房(晴賢)の挙兵によって自害する。隆房は、豊後国府内を本拠にする大友義鎮(宗麟)の弟晴英を大内氏の当主に迎え入れる。晴英は大内義長と改名し、大内氏の領国を継承する。義隆が自害した時、黒川隆像(宗像氏男)は義隆と行動を共にし自害している。その後の家督相続をめぐる争いの中で大宮司となったのが宗像正氏(黒川隆尚)の息子、宗像氏貞(黒川鍋寿丸)であった。氏貞は、天文十四年に生まれたとされる。氏貞は陶晴賢・大内義長が毛利元就に滅ぼされ、毛利氏と大友氏が北部九州の支配をめぐり戦う中で、筑前国の有力領主の一員として活動するが、天正十四年(一五八六)三月四日、四十二歳で死去した。
翌天正十五年、豊臣秀吉による九州国分によって九州の戦国時代は終焉する。氏貞は最後の大宮司とされているが、国分前後の宗像氏については不明な点が残っている。
本書は応仁・文明の乱後から九州国分後までの宗像氏について、宗像正氏(黒川隆尚)、宗像氏貞、氏貞の母親と妻女を中心にした拙稿と、宗像氏の朝鮮通交、宗像郡に隣接する戦国時代の遠賀郡(御牧郡)と糟屋郡、氏貞の動向と深く関連する秋月種実と立花城城督の戸次道雪(鑑連)などに関する拙稿を収録している。
前書『筑前国宗像氏と宗像社』(岩田書院、二〇〇三年。以下、拙著とする)に続く論文集になるが、本書では戦国時代から豊臣政権下の宗像氏が中心となる。このため、本書の書名を『戦国時代の筑前国宗像氏』としている。
【著者紹介】桑田和明(くわた・かずあき)
1953年,福岡県福津市生まれ
1976年,駒澤大学文学部歴史学科卒業
1979年,立教大学大学院文学研究科史学専攻博士課程後期課程中退
福岡県内の公立中学校,福岡県立図書館郷土資料課に勤務
博士(文学)
【著書】『中世筑前国宗像氏と宗像社』(岩田書院,2003年)