『細菌学者の般若心経と相即の知』吉田眞一 著
■本体2000円+税/四六判/296頁/並製
■ISBN978-4-910038-82-7 C0015
■2023.11発行
仏教の根源的な論理とは何か──
微生物学の基礎的研究で知られる著者が、若き日より探究してきた
仏教の縁起・空、矛盾的相即(そうそく)について、
身のまわりのことを例にあげ解説。"相即的生き方"のすすめ。
大学講演録や物の見方・考え方のヒントがつまった哲学エッセイ,
若き学究の徒へのメッセージも収録。人生の意味を問い創造し続けること。
目次
まえがき
第一章 『般若心経』と仏教哲理
これで納得、仏教論理/『般若心経』の勉強会
第二章 相即の知
【最終講義】善知識と相即の知との出会い/矛盾的相即の論理の探究
「対・変化・空存」矛盾的相即をめぐる論理的諸問題
第三章 細菌学者が垣間見た哲学的世界
アンビバレンツ/勇気をだしてパラダイム・シフト
One health, one world/循環ということ
楕円の論理/二つで一つ、一つで二つ/世界は広く、真理は深い
第四章 若き学究者へ伝えたいこと
私の発見物語/私の共同研究物語/細菌学教室「青藍会報」巻頭言より
生涯にわたって哲学をしよう/蔵書はこころを映すもの/花に寄せて めぐみ便り
第五章 ふたたび矛盾的相即
中山延二・本多正昭の哲学
あとがき
本文より
【第一章より抜粋】
世界の中の一員である私:
縁起というのは、外から見ているようなものではなくて、我々は世界の中にいて世界の一員として働いているという思想です。西洋哲学の勃興期のソクラテスは知識を問題にしました。二元論の創始者であるデカルトは、人間を精神と身体の二つに分けて「我思う、ゆえに我あり」と言って、我を問題にしたり、考えるということを問題にしたりしました。西洋哲学は「私はこう考える」とか、「私はこんなことを知っている」とかいうことになります。ところが仏教哲学は、お釈迦様は知識ではなく世界を問題にした。仏教哲学では「世界はこうなんだ」というわけですね。
東洋の方では我れがあったり、我れを思ったりするのも世界の中のことであるというわけで、我れが生まれ、生きてそこで死んでいくこの世界を問題にしたのです。だから、よくわかった和尚さんが「私はこう思う」ではなく、「こうなんだ」と断言できる根拠はこういうモノ・コトに対する見方、考え方の違いにあると考えられます。「物になって見、物になって聞く」という言葉もあります。お経を読むと如是我聞、此の如く我は聞いた、と文頭に出てきます。聞くということは考えることと異なり相手に語らしめることになります。そのときの相手は世界です。世界が語ることを聞くということですから、「世界はこうなんだ」ということをものになって知ることになります。
(「これで納得,仏教論理」より)
***
『般若心経』に書かれた世界成立の真:
私たちはふつう二つの相反する概念を頭に浮かべるときそれぞれ矛盾したものが対(ペアー)となっていることに合点していると思います。
たとえば磁石はN極とS極が必ず対となって磁力という作用が生じます。N極もS極も、自分だけでは磁力は生まれません。相手方があってこそ成立するのです。私が専門としている細菌学の世界でも、善玉菌と腸の健康との関係や、細菌などの病原体と我々のもつ感染症を防ぎ延命する仕組みもそうです。
このように相反するモノ・コトが結びついて世界が論理的に成立している、その論理性のことを「矛盾的相即の論理」と呼ぶのです。
矛盾的相即の関係にあるモノ・コトは物理化学的世界にも、生物の世界にも、生活の中にも見られることです。これがお釈迦様が悟られた縁起の法であり、矛盾的相即こそ世界成立の真理であると言えるのです。
(「『般若心経』の勉強会」より)
吉田眞一(よしだ・しんいち)
昭和24年 長崎県平戸市生まれ
昭和49年 九州大学医学部卒業
医師免許取得
九州大学医学部附属病院にて研修(産婦人科学)
昭和54年 九州大学医学部細菌学教室助手(昭和56年まで)
昭和56年 医学博士(九州大学)
産業医科大学医学部微生物学教室講師(昭和57年まで)
昭和57年 産業医科大学医学部微生物学教室助教授(平成6年まで)
昭和62年 オランダ・ライデン大学感染症科に留学(昭和63年まで)
平成3年 JICAケニア感染症プロジェクトに参加
平成6年 産業医科大学医学部微生物学教室教授(平成10年まで)
平成10年 九州大学医学部細菌学教室教授(平成27年まで)
平成27年 九州大学名誉教授
医療法人聖恵会・福岡聖恵病院に精神科担当医として勤務
(令和5年まで)
【主著】『戸田新細菌学』改訂32〜34版,共編,南山堂,2002年/『系統看護学講座 専門基礎 微生物学 疾病のなりたちと回復の促進』共著,医学書院,2005年ほか多数