安政4(1857)年60歳の8月15日、福岡を発って、大坂に向かう。大坂は出版の中心地であった。言道はわが歌を全国にひろめるには大坂しかないと考えたのであろう。大坂に住んでからは、歌の選出にかかった。その間も近畿各地を遊行するのを忘れなかった。また書では「浪華三筆の一人」と称えられた。
文久3(1863))年3月、『草径集』を刊行する。大坂に来て5年あまり、66歳であった。その後も大坂に滞在したが、慶応3(1867)年春、福岡に帰ったようである。作歌は続けられ『草径集』以後、この年あたりまでの歌が『続草径集』として残っている。
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慶応4(1868)年7月29日死、71歳であった。福岡薬院の香正寺に葬られた。「萍堂言道居士」と自筆を彫った墓石が現存する。
その人となりは、温和で質朴、貧しさを苦にせず、礼を失わず、しかも思うところを貫いた。『草径集』には、精緻な観察眼をもって、身の周りの小さな物ごとへの興味を、小さなものへの慈しみを、桜をはじめ自然への愛情を、時には内省や世相への憤りを、日常のやさしいことばで、快い音調にのせて、和歌の伝統的な約束事にとらわれることなく、軽妙に歌う人が見える。 |