図書出版

花乱社

『シャイロックの沈黙:ヴェニスの商人・飽くなき亡者は誰か』坂本佑介著

■本体2000円+税/四六判/256頁/上製
■ISBN978-4-905327-68-4 C0095

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400年間,誰も語らなかったシェイクスピアの魂の叫び。『よみがえる「ハムレット」』に続くシェイクスピア精読シリーズ第2弾!
物語は謎かけで始まり,復活したポーシアの父親がヴェニスの商人の悪を滅ぼす別の物語の幕開けで終わりを告げる。悪者の「ぬか喜び」が善の力によって滅びるからこそ,『ヴェニスの商人』は喜劇なのだ──


【目次】
序 文
第1章 『ヴェニスの商人』の概要
 1 くじ引きによる結婚と借金話
 2 人肉裁判
 3 その他の結婚話
第2章 現在までの読まれ方
第3章 謎かけで幕が上がる
第4章 召使いラーンスロットの転職
 1 良心の痛み
 2 「鳩」について
 3 ラーンスロットの罪状
 4 仕掛人は誰?
第5章 指輪と猿の物語──ジェシカ論
第6章 グラシアーノの謎の乗船
第7章 裁判と判決の問題点
 1 証文作成の経過
 2 ポーシアの驚き
 3 シャイロックの沈黙─深い悲しみ
 4 判決に込められたアントーニオの野心
第8章 ポーシアの「絶望の詩」
第9章 絞首に関する科白など
第10章 限りない欲望
第11章 正しい人間の復活
 1 物語のまとめ
 2 謎の恋の歌
 3 ポーシアの父は生き返った
 4 偏見と先入観
おわりに──批判のお願い

 

【本書「終章」より】
 『ヴェニスの商人』は,まさにユダヤの民に対する偏見の物語である。シェイクスピアがその偏見に対し「ノー」を突きつけた物語である。しかし,四百年間,ユダヤ人であるシャイロックこそ極悪非道の人間とみなす基調で書かれたものとして読まれてきた。これ以上の偏見の例を私は知らない。
 シャイロックを敵に回してその財産と魂を取り上げる物語を,シェイクスピアはなぜ書こうとしたのか? 具体的動機を確定することは不可能だとしても,やはり,エリザベス女王暗殺未遂事件で絞首台に消えたロペス医師事件が背景にあったであろう。善良な人格の持ち主シャイロックが,聖書を手にした偽善者アントーニオに全人格を奪われたように,ロペス医師がユダヤ人に対する偏見によって無実の罪によって刑場に消えたという事実に,彼は黙っていることができなかったのであろう。
 右の刑の執行が一五九四年六月七日であり、『ヴェニスの商人』の書かれたのが一五九六〜九八年(研究社版pxxi)だとすれば、ロペス事件の二年ないし四年後に書かれたものである。シェイクスピアとしては幾分時間が経ってからの執筆だと見ていい。『ハムレット』の場合は、「挑発のないところに正当殺人なし」という趣旨の有名な判決が出たのが、一五六〇年九月頃である。シェイクスピアは同年の年末頃には『ハムレット』の執筆に着手したであろう。これに比べると、『ヴェニスの商人』はロペス事件から数年後である。彼はほとぼりが少しばかりさめた頃、この作品に着手したのであろう。
 「ロデリゴ・ロペス─エリザベス一世のユダヤ人侍医」という論文(上坪正徳執筆)によれば、反ユダヤ感情に支配されている『マルタ島のユダヤ人』という劇(マーロウ作、初演は一五八九年)が、ロペス医師逮捕(一五九四年二月四日)以後、同年十二月九日までの間にローズ座で十四回も上演されている。当時のロンドンっ子の反ユダヤ感情の高まりの反影であろう。
 シェイクスピアはその後数年間、真実を書くことを控えていた。しかし、世論と正反対の劇を書くことの危険性も充分知っていたであろう。それゆえ表面的にはシャイロックを悪党呼ばわりした。しかし、召使いラーンスロットがシャイロックの元からバッサーニオのところへ転職する際の苦悩(悪魔の誘惑に従い犯罪者の手下になることへの良心の反抗)を見れば、この劇の真相はすぐに露見するはずである。しかし四百年も露見しなかった。シェイクスピアは、人々が偏見と先入観でしか劇を観ないことを期待していたのであろうか?
 ドストエフスキーの『罪と罰』においても、ドストエフスキーが一番述べたいことは、明示的には全く書かれていないようだ。これに比べると『ヴェニスの商人』では、真実の半分はストレートに表現されている。しかし偏見に満ちた人々がそれらの科白を全く読まないまま、四百年が過ぎてきたのか。
 『ヴェニスの商人』が正しく読まれなかったという事実は、先入観という病原菌がいかに人類の心の底に棲みついているか、ということの無限の証明となるだろう。
 一六〇〇年代から四百年後の二十世紀、ユダヤの民に対し恐るべき攻撃がなされた。しかし、幸い、いや当然のこととして偉大なドイツ国民は、そのときのいまわしい目印であるあの「旗」と悪魔をたたえる「歌」を永遠に廃棄し、「ナチス犯罪に時効なし」と宣言した。
 『ヴェニスの商人』を読むとき,そして四百年間、『ヴェニスの商人』に込められたシェイクスピアの魂が全く読まれなかったという事実を知るとき,偏見の恐ろしさを思うと同時に,シェイクスピアの人間としての偉大さに圧倒される。恐るべき人間の中の人間に会えた喜びを感じる。
 偏見は,恐るべき力をもって現在もシェイクスピア研究を覆い尽くしている。



【著者紹介】坂本 佑介(さかもと・ゆうすけ)

弁護士。九州大学文学部(社会学専攻)卒業
著書=『よみがえる「ハムレット」─正しい殺人/死者の復讐』(海鳥社,2008年),『ロミオとジュリエット・悲劇の本質』(花乱社,2017年4月刊行)