『我が父の記』木村光男 著
■本体1500円+税/A5判/128頁/並製
■ISBN978-4-910038-49-9 C0095
■2022.7発行
父の作った納屋の屋上の涼み台
そこに寝転んで眺めた星空から
私の読書と思索の遍歴が始まった──
運命を引き受け、苦難の一生を全うした父、
青春期の放浪を経て、中学・高校教師として生きた私。
生活の達人としての父の偉大さ、そして二世代八十年を脈々とつなぐもの。
父・子の句集を収録。
目次
一、序 章
二、苦難の一生(一)
三、不肖の息子(一)
四、苦難の一生(二)
五、不肖の息子(二)
六、星空の狂詩曲
七、父と私の俳句
八、句集「硬山(ぼたやま)」木村峯月
九、句集「小春」木村青魚
あとがき
本文より
もしこの世で最も尊敬する偉大な人物は、と、訊かれた時、私は躊躇なく私の父であると答える。
その偉大さは、例えば学問をきわめノーベル賞を受賞したとか、文学者として数々の名作を世に残した、といった偉大さとは、まったく違った次元のものである。
私は、世間の人があまり関心をもたない無名の人間の中に、父のように数多くの偉大な人たちがいることを知ってもらいたい。(略)
父は私から見れば、漁夫、農夫、大工、左官、指物師、詩人、技師、発明家、その他いろいろのすべてである。
我が家の苛酷な過去を背負いながら、父は道をあやまることなく真直に運命を引きうけ苦難の一生を全うした。
この稿を公にすれば、我が家の暗い歴史と、私の恥多い、いい加減な過去も人目にさらすことになり、私としてはかなり苦渋の決断を迫られた。しかし、苦難の一生を乗り越えていった父の偉大さを示すためには、どうしても必要であると考えた。 (一、序章より)
* * *
残暑いまだかもめは海にもぐれない
この句を詠んだ時、かもめが海にもぐれないのは当たり前ではないか、と思ってもらえれば、私としてはこの句は半ば成功だと思っている。
平成六年、私は最終勤務校である福岡県立糸島高等学校を定年まで一年残して退職、平成八年から自前のフィッシングボートによる釣りをはじめた。愛艇青魚丸で連日釣りに出ていた初秋のとある日、いつものように潮上に錨をうって撒餌をしながら釣りをしていた。
水深十メートルほどの浅瀬で、メバルやカサゴなどの瀬ものが狙いである。
しばらくすると、いつものように潮下に鴎が来て海に降り立った。潮上から流れてくる私の撒餌のアミや沖アミを待ちうけ、それをいただこうという寸法である。(略)
このころ私には目標とする課題が一つあって、それがなかなか果たせずに悩んでいた。いつかは突き当たっている壁をのりこえて進んで行きたい、という私の思いが鴎の思いとして投射されてこの句ができたというわけである。(略)
もしこの句が読者と通じ合うことができるとすれば、鴎は実は作者であり、その心象を鴎に託して詠んだものである。というところまで踏み込んでくれるかどうかにかかっており、句の良し悪しは別として、作者である私はそこに望みを託してみたわけである。 (九、句集「小春」より)
木村 光男 (きむら・みつお)
木村光男(青魚)
昭和10(1935)年1月30日 福岡県嘉穂郡上穂波町に生まれる
16年4月(6歳),上穂波小学校学
22年4月(12歳),上穂波中学校入学
25年4月(15歳),福岡県立嘉穂高等学校入学
28年4月(18歳),東京で放浪生活
31年4月(21歳),北九州市立北九州大学入学
36年4月(26歳),上穂波町上穂波中学校教諭(英語)
44年4月(34歳),福岡県立糸島農業高等学校教諭(数U及び英語)
47年4月(37歳),福岡県立糸島高等学校教諭(英語)
〜平成6(1994)年3月(59歳)