図書出版

花乱社

『日朝交隣外史ノート』示車右甫著

■本体2200円+税/四六判/416頁/並製
■ISBN978-4-910038-12-4 C0095
■2020.1刊
■著書『瀬戸焼磁祖 加藤民吉、天草を往く』

ご注文方法はこちらへ。


混沌とした「倭」の時代から1910年の「日韓併合」まで──
相剋しつつもなお対等の交隣関係を求め続けてきた日朝両国2000年の歴史を通覧する。

誠信の交わりと申す事人々申す事に候らえども、多くは字義を分明に仕らざる事これあり候。誠信と申し候は実意と申す事にて、互いに欺かず争わず、真実を以て交わり候を誠信とは申し候。(雨森芳洲『交隣提醒』より)


■目次
はじめに
1 倭と倭寇
2 富山浦
3 壬辰倭乱
4 丁酉倭乱
5 己酉約条
6 回答兼刷還使
7 倭館
8 信使聘礼改変
9 享保の信使
10 誠信堂記
11 薩摩芋物語
12 易地聘礼と幻の信使
13 明治の書契
14 釜山居留地
参考文献


■「はじめに」より
 「一衣帯水」ということばがあります。これを日本について考えると、世界で一番ふさわしい所は朝鮮との関係です。朝鮮の南端の釜山と九州の北端対馬島の間はわずか五〇キロの、対馬海峡を隔てた密接な地位にあります。古代以来、この地理的条件は変わりませんでした。 
 古代、日本という国はありませんでした。「倭国」と呼ばれていました。命名者は中国です。「倭」の呼称は七世紀前後頃、「日本」に改称されました。天武天皇と持統天皇の時代である、との説があります。日本の独立です。日本人は誇りをもって、呱々の声をあげたのです。しかし、これは、容易に国際的には認められませんでした。とくに朝鮮は、倭国の名称に執着しました。
 この書は、この日朝両国の二千年に及ぶ歴史を通覧するものです。(中略)

 日本国は文永(一二七四年)・弘安(一二八一年)のとき、高麗も参加した蒙古の襲来を受け、撃破しますが、その後、この戦いで最大の戦禍を蒙った対馬・壱岐は倭寇に変身し、朝鮮南岸を荒すことになります。倭の悪名の始まりです。
 倭寇は、李氏朝鮮(一三九二年成立)の時代になって終熄させられました。対馬と富山浦など三浦の間に、歳遣船貿易が始まり、ようやく平穏な時期が訪れました。また同時期、室町幕府将軍足利義満は朝鮮と通交し、通信使の訪問を受け入れました。
 しかし、一五〇年ほどのち、突然、激震が走ります。最大の倭寇ともいうべき、文禄の役(一五九二年)の豊臣秀吉の朝鮮出兵です。
 徳川時代は、日朝の隣好回復の時代です。朝鮮通信使が十二回、来日して善隣友好を深めました。しかし、その底流には、儒教の国朝鮮の考え方と、徳川時代中期から幕末にかけての日本における皇国史観、ひいては尊王攘夷思想の台頭によって対立し、必ずしも円滑に交流の和が結ばれたとはいえないようです。
 明治維新後、日本新政府は国書を送り、朝鮮に対して改めて和を求めましたが、朝鮮の小中華主義に妨げられて、朝鮮は容易に国書を受理しませんでした。これを契機に征韓論が起こりました。これは大久保利通らの働きで無事に収まりましたが、欧米諸国と通商を開いた先進国日本は、朝鮮に開国を働きかけました。
 こうして明治九年、「修好条規」が締結され、これによって、徳川時代の通信使にかわる修信使が四回にわたって日本を訪問しました。使節は日本で先進国の実態を目の当たりにし、これに勢いづいた朝鮮の開化派は、守旧派に逆らって朝鮮開国に奔走しました。しかし、守旧派の抵抗は強く、開化派は失脚します。
 以後、日清戦争、日露戦争などがあり、迂余曲折ののち、ついに一九一〇(明治四十三)年の日韓併合に至りました。
 朝鮮との長い歴史の中にあって、汚点のついた「倭」ということばは、無意識に朝鮮の怨念となって、朝鮮人の記憶にわだかまり続けました。
 明治の時代までの「日本のかたち」は、こうした背景を負って、いみじくもこの朝鮮を反面教師として、その一端が形作られました。


【著者紹介】示車右甫(じしゃ・ゆうほ)

1931(昭和6)年,福岡市に生まれる。
1950(昭和25)年,福岡市立博多工業高等学校卒業。
2004(平成16)年,東福岡信用組合退職。
【著書】
『断食者崩壊』(1967年。福岡市民芸術祭賞・小説部門の一席)
『天草回廊記』(上・下,文芸社,2006・08年)
『対馬往還記』(海鳥社,2009年)
『天草回廊記 志岐麟泉』(海鳥社,2010年)
『天草回廊記 隠れキリシタン』(海鳥社,2012年)
『廃仏毀釈異聞』(海鳥社,2014年)
『歴史探訪 天草興亡記』(海鳥社,2015年)
『瀬戸焼磁租 加藤民吉,天草を往く』(花乱社,2015年)
『天主堂二人の工匠─小山秀之進と鉄川与助』(海鳥社,2016年)
『破戒僧親鸞』(櫂歌書房,2019年)